被災生活記録

東北地方太平洋沖地震の発生から2週間が過ぎました。おいらは徐々に、生活が回復し、被災の緊張感も和らいでいる状況ですが、この記憶を失ってはまずいと思い、被災からこれまでの記録を記します。

壊滅的被害が無かった地域は、ライフライン・流通網の復旧とともに徐々に元の活動を戻しつつあります。

地震発生

地震発生は職場の自分のブースで仕事中。揺れかたから、前々日に三陸沖で発生した大きな地震の余震と考えたが、揺れは徐々に大きくなり机の上のディスプレイが踊りはじめる。これはヤバい、と思った瞬間停電。一気に揺れが強くなり、とっさに机の下に身を隠す。大きな揺れはどのくらい続いたか、体感としては3分ないし5分ほど続いた気が。

揺れが収まったのち、建家の外に避難して安否確認。ワンセグ放送を覗かせてもらったところ、震源はやはり三陸沖でM7.9(後にM8.3,M8.4,M8.8と修正されて、Mw9.0が主流に)、宮城で震度7を観測というところまで把握。同時に、津波のことも頭をよぎるが、この段階では10年ごとにあるような地震を想像していた。

実家へ安否メール、電話は完全に輻輳してて5回くらい送信しなおしてようやく送れた。屋外に避難している間にも余震が続き、地面は常に動いている感覚。建家周辺で地割れや陥没もあり、建家へのダメージもあった。

安否確認後、すぐに帰宅指示が出たため帰宅の途につく。その直後、「津波10m」の防災放送。職場は海に近いとはいえ、若干高台のような地形をしている。それでも少しでも海岸からの距離を確保するため、2kmちょっと離れた家のほうへ急いで向かう。途中の道路が損壊していたり、沿道の家屋でも瓦葺屋根が壊れたり、壁が落ちたり、ブロック塀が崩れたりという状況が多数見られた。全壊した家屋はなかった。

被災生活突入

家につくと、建物へのダメージはないものの、やはり電気水道ガスは使えない。また、部屋は机の上のもの、本棚のものが床に散乱しており、どこからてをつけていいかわからない状態。電気がないので片付け作業は日没までが勝負。余震を考えると、元の場所には置けない。

防災放送で避難所が開設された旨の放送があり、なにか情報があるかもしれないと近くの避難所へ向かう。途中のコンビニエンスストア辛うじて営業しており、残り少ない商品からいくらかのカロリー源と水分を確保。

避難所へ着くと、小さい子ども連れや、おじいちゃんおばあちゃんが、寝るスペースもなかろうというほど集まっている。津波を警戒して逃げてきた人もいたでしょう。期待した情報などもないため、ここはおいらのように夜を越せる家がある人間がいてはいけない場所と考え、家に戻って夜を越すことに。

この時点で、手元にある備蓄は次のとおり。

  • 水 ポットに残っていた約500mlの水
  • 食料 チョコレート菓子 1200kcal程度
  • 飲料 500mlペットボトル飲料2本
  • 備蓄電力 フル充電のノートパソコン3台、フル充電のモバイルブースタ1台、単3乾電池8本

20時頃、長野の上司から電話があり、そこでようやく地震の全容を聞くことができた。茨城でも大洗で4mの津波に襲われたことを知る。理屈としては大変な災害になったことは理解できたが、実感はまだ沸かない。

電話がつながったので、ためしにモバイルルータの電源を入れたらオンラインになったので、安否エントリーをアップロード。

布団に入っても、緊張感でなかなか寝付けず、余震も絶え間なく続く。寝付けたのは24時を過ぎていたと思う。

2日目(11日)

明け方5時ごろ目覚める。携帯電話を開くとiモードにつながったので、情報を集めようとしたところ、長野県北部でも震度6強地震があったことを知る。また、このときはじめて、自分が遭遇した地震震度6弱であったことも知る。その直後に携帯電話は圏外になり、そのまま回復しなくなった。基地局の予備電源がなくなったのだろうか。

7時すぎ、行動を開始。

  • とにかく水・食料の確保
  • とにかく情報の収集

途中、公衆電話から長野の実家に電話。おいらの声を聞いて安心した母親の叫ぶような声が忘れられない。自分の安否を伝えたり明け方の長野の地震の状況を知るのと合わせて、茨城県の中域的な被災状況、この先の天気予報を調べて欲しいと伝えておく。これ以降、携帯電話が使えるようになるまで、公衆電話が大活躍する。

以降、思い当たる商店や、人が集まる場所(役場、避難所)などをまわり、物資・情報を集めます。が、散々歩き回ったものの、確保できたのは乳飲料1000mlほど。

あわせてカメラを携行し、被災の記録となるよう写真を残した。

自宅に戻る途中、近所の電気屋ソーラーパネルによる自家発電をしており、その電力で街頭テレビを設置していた。今回の震災の状況を初めて映像でみた。徐々に大震災の実感がわいてくる。

これ以上無駄なエネルギーを消費しないために、じっとしてたらそのまま眠ってしまい、気づいたら夕方。実家と会社に電話をしたのち、そのまま夜に突入。被災二日目を終える。水道が出ないことで、トイレを使えない不安にかられながら・・・

3日目(13日)

この頃になると余震にも慣れてきて、震度3程度では動じなくなる。初期微動から震度予測もできたり。

前日同様、朝から水・食料確保、情報収集に出る。一部の店舗で販売を再開。ただし、電力がなかったり、店内が散乱しているなどで回転は悪く、長蛇の列。

  • 水4リットル
  • 500mlペットボトル飲料4本
  • チョコレート菓子など 3000kcal程
  • 単3乾電池 2ダース

を確保。

物資を求めて並ぶ列。この秩序が保たれていることに、日本に生まれてよかったと思える。
http://www.flickr.com/photos/earth2001y/5526195184/

役場でも自家発電の電力でテレビが見れることを確認。防災放送により、東海村にある原子力施設は安全に停止したことを知る。

各種コミュニティ活動で自分が持っているアイテムをサスペンドさせたり、代役に投げるために関係者に電話をかける。

東海駅近くで、不安定ながらも携帯電話の電波が通るスポットを発見。

ひたちなか市に住む、職場先輩の家で電気水道ガスが復旧したという知らせを受ける。その夜は、そこにお世話になることに。

ひたちなかへ向かう途中、道路の損傷が激しく、多くの箇所で通行止めであることを知る。また、ガソリンスタンドがあるごとに給油待ちの車列が発生していた。

3日ぶりの風呂で生き返った。しかしその直後、ふたたび水道が止まった。その後断水が続く。

4日目(14日)

出勤のつもりで職場へ向かうも、敷地に入れないことが判明。つまり仕事にならない。ライフライン復旧のメドもたたないため、長野に避難することを決める。

職場へ向かう途中、水戸行きの路線バスとすれ違った。それに乗れば水戸へ行け、水戸からつくば行きバス、TXを乗り継げば東京まで行けて新幹線で長野へ帰れると考え、準備を始める。しかし、調べたところ水戸行きバスは朝のみ。つまり次のチャンスは翌朝を待たなければいけない。

スーパーが在庫を小出しで販売を始めたので、ペットボトル飲料、果物などを確保。

4日目までに確保できた水、食料。一部消費済。
http://www.flickr.com/photos/earth2001y/5526196078/

夕方、電力が復活。通信回線も回復。ただし、携帯電話は依然つながりにくい状態。

5日目(15日)

被災地脱出作戦開始。が、東海駅へ着いたところ、バスが運休であることを知る。出鼻をくじかれたが、目の前に空車のタクシーがいたので、飛び乗って水戸へ。

相変わらず激しい給油待ち車列。水戸市内は人工地盤が多いせいか、東海村よりも地割れ・陥没が多い印象を受けた。

水戸駅からつくば行きのバスに乗る。つくばまで2時間半。

水戸駅でのバス待ち列
http://www.flickr.com/photos/earth2001y/5531174042/

つくばに到着後、TX駅に向かうが計画停電により20時まで運休の張り紙。運転再開まで会社のつくばの事務所に身を寄せることにした。

夕方、近くのスーパーでお弁当を買う。地震当日のお昼ごはん以来の白いごはんに感動。

20時TX運転再開。激混みだが、なんとか乗車。すでに疲れがピークになっており、ろくなものを食べていなかったこともあって、立ち続けるのもツライ状態。途中で目の前の席が空き、座ることができた。

秋葉原駅到着、節電のためかエスカレータは全て停止。精算機も混んでいて、JRに乗り換えるのに15分程度要した。

東京駅に到着すると最終の新幹線にも間に合い、すっかり安心した。しかし、あんなにも人が少ない東京駅は初めて。特に新幹線ホームは無人に近い状態。

新幹線に乗ったら、上野を出てからの記憶はなし。気づいたら、長野到着直前。疲労と安心感での爆睡。

実家につくと、静岡で震度6強地震があったと聞いて驚く。

避難生活(16日〜20日)

被災地から距離を置くことで、自分が置かれていた状況を客観的に見ることができた。

とにかく出歩いた後の疲労感が半端ない。19日あたりからは体力が回復。17日には一週間ぶりに快便。

タイミングよく(?)、NSEGなどもあり、そこに顔を出してリフレッシュできた。

ただ、余震がないのは不気味に思える。水道の復旧状況も気になり、随時、東海村の災害情報ページとまちBBSを参照。20日にようやく自宅周辺で水道復旧。

22日から仕事再開という連絡を受けて、21日に茨城へ戻ることに。

再び被災地生活(21日〜27日)

9:26の新幹線で東京へ。バスは動いているから余裕だろう、とのんびり昼食に興じて、いざ八重洲のバスターミナルへ行くと、水戸行きバスは長蛇の列。

臨時便の投入で14時すぎに八重洲を出ることができた。その後は渋滞にはまることもなく、順調に水戸まで。水戸駅の南北自由通路は通れるようになったが、駅ビル・常磐線はいつになったら・・・。水戸駅から自宅までタクシー。

帰宅すると、ガス・水道が使えるようになっていた。また、近所のスーパーも通常営業をしている様子が見え、確実に復興は始まっていることを実感。

ただ22日に出勤するも、仕事を再開できる環境ではないことが判明。仕事の行き先に不安をおぼえる。

スーパーは通常営業しているものの、物が足りないのは事実で、一部の商品棚が空っぽだったりと品薄感があるほか、一度に買える点数に制限があったりする。短縮営業している店舗もある。

損壊した道路の補修は徐々に進んでいて、大きく損壊した箇所も応急処置で通れるようになっていたりする。ただし、細かい陥没などはそのまま(特に歩道)で、雨が降ると水たまりができやすく、普通に歩いていても不意に段差があって歩きにくいことが多い。

ガソリンスタンドの給油待ち車列は依然続いている。これは、一時的な駆け込み過多ではなく、まちがいなく燃料の供給自体が足りていない。

常磐線は止まったまま。JRによれば、勝田までは4月上旬に運転再開(地震前のダイヤになるとは思えない)だが、勝田以北は運転再開の見込みは依然たっていない。代行バスがあるが輸送力不足は否めず、迂闊に出かけることができない。徐々に経済活動が戻りつつあるなかで、鉄道が運転再開しないのは大きな制約になる。

福島第一原発の影響も少なからずある。水道水の放射能汚染が検出され、乳児への摂取を控えるよう防災放送がちょくちょく流れていた。ただ、原子力の村であるだけあって(またJCO事故の経験もあるのか)、住民は比較的冷静でテレビなどで報じられているようなパニック的な買い占めは見られなかった。

余震はだいぶ減っている。一時は「揺れないこと」に不安を感じることもあったが、それはだいぶ解消されいる。

これから

28日から改めて仕事再開の予定。

2週間のブランクをどう取り返すかという直近のことを心配しつつ、電力不足の中での仕事の行方に不安を感じ、これからの復興・国土再建に自分はどんな役割を果たすことになるかを考え始めている。